タマチョレイタケ採集奇談
信田信夫(神奈川県津久井町)


a  昨秋、日本菌学会フォーレ(国立公園大山、9月25日〜27日)に参加、多くの菌友達と旧 交をあたため、また、新しい知己をえて、楽しい時局を過した。
 待望の9月26日の採集会には、A〜Eコースのうち、送迎パスがあり、比較的楽しそうなDコ一ス(二の沢〜三の沢)に参加、標高900m〜1100mのプナ林である。当時、比較的乾燥していて、菌量があやぷまれていたが、結果としては、かなりの種類と量のきのこが採された。採集は、午前9時30分から15時ということで、数時間斜面をはいずりまわったが、前半は、ホウロクタケ、エビタケ、マスタケetc の他、若干の小菌をえたのみであった。終了時間も近づき、「そろそろ上ろうか」と思っている矢先、ふと道路わきの林に入ってみる気になり、15m〜20mほど入った場所で、おやっとして配給されていた20世紀梨を食べはじめた。梨をかじりながらふとかたわらを見ると、ちょっと変ったきのこが生えている。「これはヒョッとするとヒョッとするぞ!」と思いつつ、その時は明瞭な形では、タマチョレイタケ(Polyporus tuberaster)の名は浮ばなかったのであるが、「菌核を採らなくては!」と掘りはじめた。が、じきに根がプツンと切れてしまった。仕方がないからあきらめようと、そのまま袋に入れて道路に戻ると、じきに数人の人々がいて、「何かありましたか?」という。「今こんなのがありましたよ」と見せると、「これはタマチョレイタケですよ。貴重なきのこです。でも、タマは掘らなかったのですか」という。「いや、切れちゃいました」というと、「タマチョレイタケにタマが無いのは、タマが無いのも同然ですよ」という。「このきのこは、まだ、公式には、10例ほどしか報告されていません。掘った場所を覚えていますか?」「ええ、もちろん」というような会話が交され、結局、人々を案内して、現場に戻る。ここで対話の相手、昨年出版された『新潟の食用きのこ Guide Book(1)(2)』(中野正剛、宮内信之助、中村芳光、江口 彰編著・発行〈抹〉文化)の著者の一人、宮内信之助先生に手伝っていただいて(というより、手伝って)菌核(タマ)を掘りだした次第である。

 当日タ刻の鑑定会には、俄然注目の的となり、多くの人々の驚嘆、賛嘆の目にさらされたわがタマチョレイタケは、あらゆる方角からシャッターの的になる。内心鼻高々でいると、黒石在住のきのこ研究家で、わが東京薬科大学の卒業生でもある松井和夫氏が、「別に珍しくもないですよ。黒石でも何度か採集しました」と言う。鑑定家の長沢栄史氏も、誰かが「殊励賞ですね」と言うのに対し、「いや、努力賞というところですね」と言う。「どうでもいいや」と思っていると、どこかの菌類関係の企業の人が、「少し組織をいただけませんか?」と言うが、筆者は返事をしない。当夜は10時までそのまま陳列しておく よう指示されていたが、そそくさとしまいこんで、わが部屋に囲い込む。というのも、昨年、清澄の東大演習林での採集会では、展示しておいた鑑定済サルノコシカケの標本数点が、何者かに持去られたらしく消えてしまい、がっかりしたことがあるからである。----筆者は現在、神奈川きのこの会で、サルノコミノカケの研究担当者ということになっている----つまり、「アツモノニコリテ、ナマズヲフイタ」わけである。

 結局このきのこは、鎌倉に持ち帰って、我家の冷凍庫で標本にしたが、鳥取から数日かけて持ち帰ったせいもあって、カサがさけ、あまりいい標本にはならなかった。というのも、翌27目は、かってカニバリズムがあったという鳥取城趾や鳥取砂丘をぶらぷらし、夜行寝台で帰ったからである。こんなことならあの人に「組織」を進呈するのだったと、申し分けない気分の今日此頃である。あるいは、今度の会で知りあった、熱心な研究家である、広島女学院の山手さんにでも預けて、標本にしてもらえばよかったのかも知れない。
 ところでその後少しして、黒石の松井氏から便りがあり、筆者のタマチョレイタケが、「菌覃」10月号にのっていると知らせていただいた。早速同誌を取寄せてみると、筆者のかのタマチョレイタケが、バッチリ写っているではないか。ただし、採集票を置いてこなかったせいでもなかろうが、採集者の名が記載されているわけではない。ここに、慎んで、報告させていただく次第である。

 なお、本年初頭に巻島三郎氏から、「『ツンベリーにおけるキノコ』の論文有難うございました。興味をもって拝読いたしました。タマチョレイタケは素晴らしい収穫でしたね。あれを見ることが出来ただけでも、大山に行った甲斐がありました。どうぞ長く生かして下さい。会場はもっとこの話題で沸くべさでした」という、有難いお便りをいただいた。私信ではあるが、うれしさのあまり、ここに披露させていただく。

 ところで、今にして思うと、あの時、たまたま梨を食べに道路から林に入ったのは、虫の知らせというか、インスピレーションというか、タマチョレイタケが筆者を呼んでいたのではないか、と想うのである。C.G.Jungのいう「時局的符合性(synchronicity)」とい うのはこのことではないかと、つくづく思うのである。この種の体験をした人は、わが菌友のなかにも多いのではないだろうか。

 さて、菌学会の長老で、前出『菌覃』10月号に筆者と一緒に写っている、川島清一氏だったかどなただったか、「今関先生に報告したらほめられますよ」と言われたが、その後今関先生にお目にかかってはいないし、こ報告もしていないので、おほめの言葉もいただいていないのである。結局、組織を「長く生かす」こともしなかったわけで、むしろ、お叱りを受けるのが積の山かも知れない。今までは、ただ標本を作るということだけを考えてきたが、今後は、組織のレベルで「長く生きさせる」という観点を、銘記したいと思っている。

1987.2.27.



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