きのこの民俗3−マツタケとマイタケだけを食べた話−
小林徳男(秩父市)


a  秩父地方ではどの町村に行っても、2〜3名のきのこ採り名人がいます。私は50才以上の方10名と面識があって、余暇を利用してはきのこ談義に行き、きのこにまつわる民俗を取材しています。

 きのこ採り名人と自他ともにゆるすには、それぞれに学習があったはずで、どのようなプロセスで今日をむかえたのかを、よくたずねます。一様に言うことは、祖父母のお伴でよく山に行ったということ、祖父母から教えてもらったということです。父母のことに言及すると、これまた一様に、「シロ」は教えてもらえなかったといいます。どうもシロは父子相伝ではないようで、独自でシロを開発する以外に知ることはできないようです。小学生のころから、山へ連れていってもらえたということが、知らず知らずに山への関心を高め、きのこへの興味を引き起し長い年月をかけて、少しづつきのこのことを覚えていったのだと言えそうです。このことは渓流釣りにも共通しているようで、己の経験と独学によって、知識を増やし、地方の名人にのしあがってきたのだとも、言えそうです。

 皆野町の名人、浅見 集さんは、ある時、こう語りました。「昔、私は今のように、イッポン(ウラベニホテイシメジ)やサクラ(サクラシメジ)などは食べていなかった。もっとうまいマツタケ、センボン(シャカシメジ)、マイタケだけを食べていたのだ」。マイタケも、桑取り籠に入りきれないような大きなものがあって、一株取ってくると、3回も食べ られたとのことです。桑取り籠の大きさは、径50cm、深さ80cmもありました。今では思いもおよばぬほどの、うらやましい話ではありませんか。その浅見さんも、戦後になると、うまいきのこが採れなくなって、いつしかイッポンやサクラ、ヌノビキ(カノシタやシロ カノシタ)を食べるようになってきたのだそうです。「前に、ト沢先生を案内したとき、 タマゴタケはおいしいと聞きましたから、タマゴタケのきのこ汁をつくって食べてみましたが、まことに、まずかった」と、話してくれました。

 今次大戦末期には、20年以上の木がほとんどなくなりました。どの山も10年生以下の木になってしまいましたから、きのこの出もわるく、やがて大きくなった頃は、プロパンガスが普及し、薪炭としての需要が極端に減って、農家が得る山からの収入はなくなってきました。収入のない山は人々から見放され、山の管理も放置されたままになってしまいました。

 かつては、伐採後十年間、株立っている木を整理し、下枝を払って通風をよくし、光をあてて、成長を促してきたものです。冬期には落葉をかき、集めた落葉を牛馬や豚小屋に入れて、堆肥をつくりました。この落葉かきにはクマデを使いますが、クマデがよく使えるように、下草をていねいに刈りましたから、林は年々きれいになっていったものです。このような林からは、各種のきのこがよく生えました。松林も同様で、よく管理されていて、秩父一円にマツタケが出ていたものです。

 浅見さんも農家経営の推移とともに、マツタケから(浅見さんの言う)雑きのこへと、好みを変えさせられてしまったのです。
 戦後の、針葉樹の植林ブームと針葉樹林の管理不行届きや、かえって、山を滅ぼすのではないでしょうか。少しの雨で増水し、渇水時には極端に荒川の水量が減る、保水力をうしなってきた山が、かわいそうでなりません。




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