きのこの体(菌類組織学の誕生を待ち望んで)
吉永 潔(蓮田市)


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新しい生物の授業に向けて

 生物学という学問を見てみると、分類学のみではなく、組織学、解剖学、発生学、生理学、生化学、進化学、生態学など大ざっぱに見るだけでも非常に多くの分野が研究されています。従来から高等学校の授業できのこ学を取入れたいと思いながら旨く教材化できないでいたのですが、この機会にその素案を兼ねて熊谷図書館での話に加筆してみようと思います。

きのこの細胞

 実は近頃、数人の方たちと、顕微鏡で遊ぶ会をやりながら、いろんな事を発想しながら楽しんでいます。なにせ私を含め、きのこの菌糸に関しては、ほとんど初心者であり、ほぼ独学の様なもので、いろんな考えに捕らわれず、自分で考えながらでなければ顕微鏡が見えないのですから、これは実に自由で楽しいです。その中で近頃、思いついて「何でこんな簡単なことを自分は気付いていなかったんだろう」と思ったことがありました。
 きのこの細胞の形を眺めながら、私たちが高等学校の授業で教えている細胞の形とどうしてこう違うのだろうと、漠然と思い続けてきた(というほど重いものではありませんが)様な気がします。細胞の形というと、私たち高等学校の教師たちは、図-1、図-2の様な植物細胞の形や動物細胞の形を授業しています。これらの細胞は殆どすべてといってもいいほど、細胞と細胞の隙間がないのです。ですから、食べ物に味付けをする時は煮て細胞を壊すか、漬物にして塩などで細胞の隙間を作って(原形質分離といいます)塩味などをその細胞の隙間に入れるのです。
 きのこの体を作っている細胞、これは普通菌糸といいますが、これらの細胞は自由自在にうねり回っているように見えます。それに対して、前掲のオオカナダモの細胞を見て下さい。最初はアミダクジとか梯子の用に見えますがよく見るとすこし違っていることに気付きます。3つの細胞が接している部分を見ると、隣の細胞(A)が別の細胞(B)になった時Cの細胞は明らかに無関心ではなくBの細胞の方を向いているのが分ります。これは、隣の細胞によって自分の形が一方的に主張できず互いに規制しあっている状態だからです。私はこれを細胞の平等性と思っています。これが現在の高等学校の生物授業で扱われている細胞です。

 そこで、きのこの細胞ですが、なぜ自由に(?)走り回っているのでしょうか。
これ らの細胞は細胞同士の間の隙間を埋めることを全くといっていいほど考えてないからです。そこで、きのこでは細胞の間に隙間が一杯ある体が出来上がることになります。

細胞からできる体

 きのこを眺めた時まず気付く、きのこの体の特徴は何でしょうか。私は今、触感的には柔らかさだと思っています。既に、上で述べてきたとおりきのこは動物や植物と異なり細胞の間に隙間(私は細胞間隙という用語は適さないと思っています)があるのが基本だからです。きのこにも硬いものは一杯あるじゃないかという反論もあるのですが、厚壁菌糸である骨格菌糸などの話はすこし本論とずれるので、また時を改めて論じるとします。
 なぜ、細胞の隙間にこだわるのかというと、この細胞を見た時初めてきのこは動植物とは異質の生物なんだと実感したからです。先頃お亡くなりになられ、生物三元論を説かれた寺川博典先生は、著書にいかに根本的に菌類が、動物とも植物とも異なる存在なのかを具体的に説かれた名著を残されました。その中で「菌と人と自然と」は、すこしでも生物学の素養があれば、分り易く読み易く書かれた本でした。私が8年ほど前この本と出会った時、従来生物の授業を教えていて持っていた、幾つかの疑問を見事に解いてくれた本だったのです。ところがここに書かれている、きのこが「菌糸によって栄養を外部から得ている」事を、なるほど、きのこに関わる者には常識だな等と私は僭越にも簡単に思っていたのでした。しかし、思い返してみるときのこの細胞が隙間をもつことはこの栄養の摂取の仕方、取りも直さず、菌類が動物とも植物とも異なる祖先から進化してきたという生物三元論の根幹を表しているのだと気付いたのです。そして、寺川先生が主張された生物三元論と様々な3界説とは、ここでこそ違っていたことに改めて気付いたのです。従来の様々な3界説は、生物の形を重視することにより(形態学的に)「分類するため」に3つのグループを考えてきました。しかし、生物を進化の上から見て、形態のみでなく生活法によって、3グループに分類されることを示されたのです。いかにも進化論に対するこだわりのない、日本でこそ考えつかれた優れた学説だと思います。

栄養法の違い

 動物や植物は、単細胞の生物が集合して生活する長所を利用するため(「ため」という表現は厳密には誤りでしょうが)に多細胞になったものですから、いわば細胞が密接することは、多細胞化の目的そのものであったわけです。しかし菌類は本来的に従属栄養と呼ばれる栄養の取り方をする生物で、外部の栄養に菌糸をのばして養分吸収をして、自らの体を作ったり、子孫を作るわけですから、細胞が密接することはかえって邪魔であったわけです。そこで密接した細胞の塊を作るのではなく、つながった細胞の列(菌糸)状態の体を作ってきたはずです。そしてその菌糸を栄養(現在では植物の体だったりする)の中にもぐりこませて養分吸収をするのです。
 そこで、きのこの細胞は細胞と細胞の間を埋める等とはいっさい考えず、胞子を散布するための背丈や、空中の乾燥から菌糸を守ることだけを考えた体を作り、二次的に動植物に似通った(大きいあるいは高いというだけが)多細胞体ができたというわけです。だから、多細胞の体は派生的なものですから、少なくとも菌類に関しては大きな体のきのこと、細菌やかびなどとを基本的に別グループにする根拠がないのです。

きのこの分類

 菌類という用語は本来、きのこを意味する「菌(クサビラ)」という言葉から来ているもので、かびや細菌は後から付け加わったグループなのです。普段は細菌の名前を「赤痢菌」などと呼ぶために、細菌が菌類の中心とお思いの方が多いと思いますが、そうではないのです。その本当の菌類であるきのこの分類を考えると、担子菌類と子のう菌類の2グループがあります。どうして2つに分類されるかというと、これらのグループは異なった進化を遂げてきたと考えられるからです。最も大きな形態的な特徴は胞子の作り方です。ここではすこし(かなり?)独断を交えながら胞子の散布法を想像してみたいと思います。

胞子の作り方と散布の仕方

 胞子の作り方については、担子菌類は担子器と呼ばれる細胞の先端に4個か2個の胞子を作り、子のう菌類では子のうと呼ばれる袋の中に8個の胞子を作ります。この顕微鏡観察は、籾山さんの「熊谷市図書館でのきのこ展報告」に図がありますので省略します。
 下の写真はドクツルタケの傘を縦に切った顕微鏡観察です。上から幾つかの違った形の細胞層が続き、ヒダの断面やヒダの最下部からツバの一部が作られていっているのが確認できます。
傘上皮 ゼリー層

ヒダの断面 ヒダの断面

ツバの組織(球形細胞が見られる)

 このヒダの断面を拡大すると担子器や未熟な担子器が観察できます。種類によってはこれらに混ざってシスチジアと呼ばれる異形細胞も観察できます。担子器を観察していると、菌その物が成熟しておりかつ胞子が大量にあるにも拘らず、成熟した担子器はかなり少ないことが分ります。この事から考えると、きのこは担子器が順次少しずつ成熟しながら胞子を落としますが、担子器は密生しているためかなりの量の胞子となるようです。又時間的にも長期間胞子を落とし続けることになります。
 これに対して、子のう菌類では成熟した菌に於ては、必ずたくさんの8個の胞子を含んだ子のうと、空になった子のうが観察できます。これは、胞子が何かの刺激によって一度に放出され、その前は8つそろって放出されるまで待機していると考えられます。たぶんこの刺激を感じるのが子のうの間に大量にある側糸と呼ばれる糸状の細胞群だろうと思います。私の観察では湿度の高い曇の日に、ツバキノキンカクキンがその上の落葉をすこし動かすと10cm以上の高さに胞子を放出します。
側糸が空中の湿度とわずかな空気の揺らぎを、たぶん側糸同士のぶつかりあいとして感じて、子のうの底からのガス噴出によって胞子が一度に射出されるのではないかと思います。
 胞子の散布方法を考えると、この二つの胞子のでき方からは異なる散布戦略が考えられます。特に雨に対してです。担子菌の場合、担子器本体が雨に濡れると空中に胞子を飛ばすことは不可能です。そこでホウキタケ類より、帽菌類と呼ばれるグループの様に担子器を傘の下に配置し、柄によって高さを保証した群のほうが胞子を飛ばすに有利となります。それに対して、子のう菌類では外部の条件を察知しながら瞬時に胞子を出すのですから、雨にたいしてさほど神経質にならずとも大丈夫です。そこで殆どの場合、子のうは雨覆いをもたず、胞子は上あるいは横に向いた方向に打出されることになります。しかし、胞子を出す位置は、高いほど胞子の散布距離は稼げるわけですから、担子菌類同様高い体を作るアミガサタケ等の様な体が有利になるようです。そこで担子菌も子のう菌も本来的にはバラバラの菌糸が集合して、高度を保証できる肉眼的なサイズの体を作るようになったと考えられます。この時、いわゆるきのこ型の帽菌類に対して、いくぶん似た形のアミガサタケやノボリリュウなどはそのグループが異なり、キクラゲに対して、チャワンタケも姿が似ているが別グループです。このように異なる生物群がある有利性から形態的に同じ体に進化することを収斂進化といいます。それは、違った進化を遂げた生物でも、二次的に似た形態になることで知られています。
 そこできのこを見る時は肉眼的な形だけでなく、顕微鏡による観察をした体験をもつべきだと思います。形のみできのこを見ることは、慎重でなければいけないわけです。そして同じ理由で、肉眼で観察できる「きのこ」とかびの仲間を大きく区別することは、胞子の散布戦略からなる収斂によった大型化を同一の祖先に由来すると重大に考えすぎた誤りだと思います。

最後に

 このように、きのこには形がいくぶんか似てはいるものの、分類学的には全く異なる子のう菌と担子菌の2つのグループがあり、これらはかなり異なった生活をしていることが見えてきます。しかしこれらを形が似ているからと簡単に同じ様に考えてはなりません。生物を花の色や、食用になるかどうか、大きいか小さいかと言った人間中心の基準で分類することを「人為分類」と言います。分類学ではこの人為分類からいかに自然そのものの姿の分類に気付くかが大きな課題です。
 きのこを1種類ごとに考えている時、さほどこの差は注意を引きませんが、大きく生物全体の中でそれぞれのきのこがどの様な位置を占めるかを考えることが大切です。また、どちらにしろ、きのこは他の生物と異なって、栄養(殆どが他の生物やその死骸であるわけですが)の内部に体を侵入することで生活する侵入従属栄養の生物ですので細胞同士の間は密着する必要はないのかも知れません。そこで、きのこは細胞同士の間にいっぱい空間ができ、一般的に体が柔らかくなるわけです。これは、単に硬い柔らかいの問題ではなく、きのこの栄養摂取の方法から来る、分類上の基本的な他の生物に対する異質性なのです。見かけだけの大きさに惑わされて他の生物と同じ様に考えてはならないのです。
 職業がら、生徒を相手に教えているような文になって、まだまだ初心者に近い自分としてはお恥ずかしいのですが、辛辣な御批判があれば有難いと思います。 御意見をいただければ幸いです。



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