山に登って
吉永 潔(蓮田市)


a  8月も終わる頃、かつての同僚たちと日光白根へ出かけました。正直、頂上までは無理と思いながら、登山部顧問をしている古末行一氏などの励ましで、思いもかけず頂上まで登れました。途中の登山道沿いには、「ドクササコ」がいっぱい群生をしています。初めて出会う観察したかったきのこに出会った喜びで、わくわくしながらどんどん収集しました。ところがこの「ドクササコ」が曲者で、下山後調べてみると、なんとこれがムクゲヒダハタケという採集は初めてではあるものの、全く関係のない種でした。しかもたくさんの種類が見られると言う山にもかかわらず、ほかにはあまりめぼしい種を観察できず、ヤマイグチと、イロガワリヤマイグチと、スミゾヤマイグチが目立っていました。

 マルバダケブキにも黄色が少なくなり、山の夏もそろそろ終わりを感じさせます。シカの食害から守るため、電流の流してある導線があちこちに張り巡らしてあります。山のお花畑を見ると、草原の中にあちこちと枯れた針葉樹が頭をもたげています。周囲を見るとほとんどの針葉樹が幹の先端を痛め、少し環境の厳しいところでは軒並み樹木は白い木肌を剥き出しにしていました。剥き出しの木肌の群からは、かつてのしっかりした林のありようが伺えてきます。遠くに見える山の中には、樹木が全くなくなった山さえ見えてきます。寂しい思いをしていると、周囲からはきれいな山だね、とかやっぱり山はすばらしいねとか聞こえてきそうです。空を見上げると、もう昼を過ぎているというのに、雲一つガス(霧)の気配一つありません。ごろりと沼の周りの広場に横になると、深い深い青色をした空が、不思議な広がりをしていました。

 山を歩きながら、日本の山がいかにひどい状態に壊れ始めているかと、改めて暗澹たる思いにされました。しかし、多くの登山客はさほど深刻さを感じていないようです。現在の同僚にも山登りが好きなものが何人かいますが、こんな花が咲いているよとか、ウヰヤと黒色のコントラストが美しい鳥)が目の前をたった今横切ったよ。などといっても全く関心を示しません。今や自然は目の前にあっても、見えてはいないのでしょうか。いつから日本人はこんなに自然が見えなくなったのでしょうか。応用科学こそが自然科学だといわんばかりに、自然から学ぶ科学的な態度は、初等中等教育の現場にさえなくなりつつあります。オウム真理教で科学者が動員されたと報道されても、誰も異論は言いません。彼らが科学者であったとしても「自分こそ人々を救うことができる」と思っていた応用科学者のみです。金を生む応用科学優先の世相は、あのような集団を生んでもまだ自らの異常性に気付きません。その異常性こそオウムを生んだ本質のように思えるのです。応用科学と基礎科学は本質的に向く方向が逆です。人が自然と向き合うか、その知見を人間社会に「与える」かです。

 見えるものさえ気づきづらい現在にあって、見えないものを見なければ、見えて来ないのがきのこの世界です。きのこの本体は菌糸の世界だからです。日本の山々・自然がどんどん変質しています。これは、多くの方たちがあちこちで指摘してきているとおりです。しかし、これはまだ樹木が枯れ始めているという程度です。多くの人は、枯れ木が集団で見えても、その変化の過程を想像できません。幻想的な美しい風景だと思っています。きのこの菌糸は、ずっと以前から今起こっている環境変化の影響を受け続けていたはずです。この菌糸の受けた変化は、もちろんほとんどの日本人に見えないのかもしれません。しかし、この変化は樹木の根を包む土壌の重要要素の変化ですから、いったん重大なダメージを受ければ、取り返しがつきません。自然を大切にすると言う主張は、まず菌類が、そして植物、動物が考えられるべきだと思います。今こそ、きのこの存在を毒だとか食用だとかを越えて、人間界を根底から支える生物として見ていただけるように訴えかけていきたいと思います。




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