幻となったキノコ:ニオイオオタマシメジ
浅井郁夫(川口市)


a  ニオイオオタマシメジ ( Squamanita odorata)について少しマトモな記事を書いて欲しい、と7月(1999年)早々「いっぽん14号」の編集担当から原稿を依頼された。追っかけるように、英文の資料もすぐに送られてきた。しかし手元には以前撮影したフィルム類は何も残っていなかった。まずは、写真を撮って、標本を採取しそれを多方面から観察しなくては記事にもならない。そんな思いで、この時以降、キノコがらみの日程は殆どがニオイオオタマを求めての行動に終始することになってしまった。年末までの結果はカラブリである。記事を書こうにも、書くための素材を得ることができなかった。「マトモな記事」は今後に期待して、このキノコと関わることになった経緯についてだけでも記述しておこうと思う。

 そもそもが、1998年10月に川俣湖畔の林道脇でニオイオオタマシメジを見つけたことを、キノコ仲間に報告してしまったことが始まりだった。この時はキノコ観察が目的ではなく「老母を乗せての紅葉狩り」という我が家の恒例の行事で、日光〜山王林道〜川俣と紅葉を楽しみながら川俣に入った。ずっと雨だったので、例年のようにいくつかのポイントでの展望を楽しむこともできず、車を走らせっぱなしとなり、意外と早い時刻に川俣に着いてしまった。せっかくだからと馬坂林道に入り、恒例の観察ポイントに車を留めた。激しい雨のためにどうしようか躊躇していたところ、林道脇にコガネタケの群落が見えた。

 外に出て、コガネタケに近づいてみると、その少し先に茶褐色の30cm以上もあろうかというボール状の塊が半分ほど地中から顔を出していた。よく見ると、さらに2つほどの塊がある。近づいていくと、その内の1つには表面に小さなキノコが無数に付いていた。ひどい雨だったので、一眼レフは使わず、メモ用に持っていたリコーのデジタルカメラでこの姿を撮影した。そして、このうちの1つを持ち帰ることにした。これは10数個の小さなキノコ状の突起を表面につけた径15cmほどの塊であった。表面の突起はまだ非常に小さく、いわば「キノコの赤ん坊」の状態だった。

 大きい方の塊は運搬には耐えられそうもないが、こちらなら、キノコを傷めずに持ち帰れるだろう、また数日内にキノコが発生する姿を見ることもできるだろうと思い、新聞紙でくるんで持ち帰った。これが、久しぶりのニオイオオタマシメジとの出会いだった。千葉菌の集まりが近々あるので、この折に持っていくことなどを、帰宅した夜、知人らにメールで流しておいた。何人かには、採取した場所の詳細についても具体的に記述しておいた。後日、天候条件の良いときに出直せば、まだ数日間はよい写真が撮れるだろうと思っていた。

 話は、埼玉きのこに入会する前にまでさかのぼる。コガネタケが決まってよく発生する場所を幾つか知っていた。秋のハイキングの折りに道ばたにコガネタケを見つけるのは楽しみの一つだった。ある秋いくら探し回ってもコガネタケの姿はどこにもなかった。そして、いつもならコガネタケが発生する辺りに、黄金色の大きな塊をいくつも見つけた。表面の感触や色からコガネタケの変化した姿らしいことはすぐにわかった。多分これはコガネタケの菌核だろうと思った。そんなことがあってから、秋になると黄褐色の塊を探すことも、楽しみの一つとなっていた。

 8、9年ほど前になるだろうか。ある日、山道を歩いていると大きな褐色の塊が遠くに見えた。表面が妙な色をしていたので急いで近寄ると、小さなキノコが塊の表面から発生していた。多数のキノコが菌核の表面を覆っていたため、塊の色が見知ったそれとは違って見えたものだった。幾つかの塊の表面にキノコが発生していた。大きな子実体を擁したものは塊が崩れたり塊部分が小さかった。多分この塊部分を餌にしてキノコが育って行くのだろうと思った。子実体がまだ小さな突起状のものでは、菌核の部分は大きくきれいな黄金色をしていたのが印象的だった。

 大きな黄金色の塊から生えたキノコという、典型的な特徴をもっていたため、図鑑をみればすぐに素性が判明するだろうと思っていた。しかし、色々な図鑑類を繙いてみても、このキノコについての記述を見つけることはできなかった。名前が分からないままにその年は終わってしまったが、さほど気にも留めていなかった。例年、名無しキノコはあまりにも多かったし、当時は、学術論文やら学会報告などを見るという知恵は無かったので、図鑑類に記述がなければ、いつまでたってもそのままだった。

 その翌年だったろうか、9月頃再びコガネタケの菌核を見つけた。周辺をさんざん探したが、表面にキノコを発生させたものは見つからなかった。ちょうどそんな頃、北海道新聞社から五十嵐恒夫著『続・北海道のキノコ』が出たことを知った。上巻はすでに持っていたので、躊躇なく購入した。何気なくページをめくっていくと「ニオイオオタマシメジ」の記述があるではないか。食毒の記述についても「食」と明記されている。ということはすでに「よく知られた」キノコということになる。2ページにわたって明瞭な写真が掲載され、このキノコについて記述されていた。ただ「まれ」というのが気にかかった。このとき初めて、かつて自分が目にしたキノコの名前を知ることができた。そして、その翌年か翌々年に山渓フィールドブックス『きのこ』も発刊され、この中にもニオイオオタマシメジが記述されていた。しかし、それらの記述はあまりにも簡略なため、具体的なことは何も分からなかった。ただ、すぐにでもまた出会えるだろうと思っていた。

 例年コガネタケのシーズンになると気にはしていたが、ニオイオオタマシメジには長いこと出会えなかった。そして、忘れたた頃に再会したのが、1998年の秋の川俣だった。この時にはキノコの正確な和名すら思い出せない有様だった。メールで「次の千葉菌に持っていく」と書いてしまったので、それまでの保管には気を遣ったが、それが裏目にでてしまった。適度の湿度と温度管理が、逆に菌核の中に住んでいたキノコ虫の成長を助長してしまったようだ。キノコのためにしたことが、虫のために最良の措置をとってしまったらしい。

 千葉菌の集まりに出向く日の朝、新聞紙を開いてみて愕然とした。菌核の表面にあったはずの、幾つかの幼菌が殆どない。そして、長さ5mmから8mmほどの体長の白い蛆が多数、表面を這っていた。塊の中に産み付けられていた卵が孵って、表面の突起状の幼菌などを食ってしまったようだ。菌核の表面にいくつもの突起はまだ残っているものの、再びキノコとなって発生してくれるものやら危うくなってきた。取りあえず、菌核ごと水没させ、表面の蛆を洗い落として、再び新聞紙でくるんでアイスボックスにいれて千葉に向かった。途中で休憩した神社で、アイスボックスを開き新聞紙を開くと再び白い蛆の山だった。ここでも蛆を払いのけた。しかし状態はさらに悲惨となり、殆ど塊表面の突起はなくなっていた。

 結局千葉の会場に持っていった時は、殆ど菌核ばかりという状態となってしまった。子実体(キノコ)が順調に成長すれば菌核部分は分解されて小さくなっていくのだろうが、逆に塊の中に生息している昆虫類の成長の方が早いと、子実体になるはずの部分が真っ先に昆虫の餌となってしまうようだ。この間、先のニオイオオタマシメジのメールを受けて直ちに川俣に出かけた知人から、「指摘の場所ではみつからなかった」との主旨の連絡を受けた。お互いに場所を再度確認したが、場所は間違いない。それならばと、次の休みに再び川俣に行ってみた。やはりそこにはもはやニオイオオタマどころか、コガネタケの残骸すらなかった。しかし、次の年にはまた同じ場所で見つかるだろうと気楽に考えていた。

 この年、デジタルカメラを新しいものに変えた。解像度の低いリコーのデジカメはデータを抹消して他人に譲ってしまった。この際に、川俣のニオイオオタマの写真は総て消えて無くなった。しかし、当時は「写りは悪いし、解像度も低い。来年また撮ればいいさ」と考えていた。そして、1999年7月、ニオイオオタマについての記事を依頼されることになった。さあ大変だ、写真がない。まず最初にすべきことは「自分で撮影した写真」を確保することだ。そして、この年のキノコ行脚は大部分がニオイオオタマシメジを求めての日々となってしまった。

 コガネタケがあると聞けば、数日以内にどこにでもいってみた。コガネタケがなければ菌核ができない。菌核ができなければ、ニオイオオタマシメジの発生もありえない。だから、とにかくコガネタケ情報を集めることに終始した。メール仲間にもコガネタケ情報の提供を依頼した。軽井沢にも行ったし、夏は北海道にまで足を延ばした。北海道では上川キノコ会長の佐藤清吉氏ご夫妻には非常に世話になった。氏と奥様の造詣の深さと懐の大きさには感激した。佐藤氏宅で一夜を過ごし、さらに翌日には大雪山を案内していただき、久々に楽しい時を過ごすことができた。この紙面を借りて改めてお礼申し上げたい。この数日だけが、ニオイオオタマシメジから解放された唯一の時だった。

 北海道からもどると、また毎週のようにニオイオオタマ探しの行脚となった。前年見つけた川俣にはほぼ毎週のように行ってみた。しかし、11月末に至るまでとうとうここでは見つけることができなかった。この間、例年の観察ポイントも回ってみたが、そこに出向いても心はニオイオオタマシメジのことばかりであった。そんなうちにとうとう年末を迎える羽目になってしまった。結局今年度はニオイオオタマシメジに再び出会うことはできなかった。いったん、このキノコに関しては切り上げて、次回出会ったら改めて、原稿を書きたいと思っている。




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